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台パンするなら麺を打て

対麺厨です。TwitterID @pokebozu2000

宗教性とカリスマ性が著しく欠落した聖書のような何か

 突然ではあるが、一つ読者の皆さんに問いたい。人は何故己の筋肉を鍛えようと思うのだろう。例えば体育会系の部活に所属しているなどの理由で、自らの競技力向上のため筋力の増加を図る人がいる。また、恋人の前でその服を脱ぐ日を夢見て筋トレに勤しむ人も一定数はいると思う。しかし、本当にそれら直接的な理由のみによって、人は己の肉体を痛めつけ、破壊し、自らの行動に制約を加えることができるのだろうか。これは筋肉に限らず他の様々な行動に対しても、同じような疑問がつきまとう。人は時折一文の得にもならない人助けをしたり、投げ出したくなった本を読みたくもないのに我慢して読み切ったりする。そこに直接的な利益はほとんど発生していない。それら不可解な行動について、一つの解釈を提示させていただきたい。それは、自己承認という概念である。自己承認とは自分自身を認めることであり、しばしば自信を持つという表現をされることもある。 

 人は自分に対して自信を持ちたいが故に、己を鍛え、自身との対話の中で自信を掴み取るのである。

 

 また一方で、この自己承認の対称に存在するのが他者承認である。これも、文字通り他者から認められるということであり、これは人間が社会を形成する上で必要不可欠な、殆ど本能的な欲求である。人から認められたい。それは充分自らを制限する理由たり得る。

 

 しかし、話を筋トレに戻せば筋力トレーニングをすることで他者からの承認が得られるケースはかなり稀である。腹筋をどれだけ鍛えていても、服を脱がない限り肝心の腹筋は姿を現さないのだからこれは当たり前の話だと思う。

 そこで想像してみてほしい。今、1人の哀れなオタクが、綺麗な女性に話しかけられたとする。オタクは自分に自信を持つことが出来ず、おどおどし、殆ど意味のある発言をすることが出来ない。では、そのオタクの腹筋がとても綺麗に割れていて、オタクはそのことに絶対的な自信を持っていたと仮定するとどうであろう(そんなオタクがこの世に存在するかは置いておいて)。オタクは、初めは確かにおどおどするかもしれない、が、自分に自信を持ったオタクは、持っていないオタクよりは、心に余裕があり、ちゃんと日本語を喋り、もしかしたら苗字くらいは聞き出すことができるかもしれない。ここに挙げたのはかなり極端な例かつ、想像に依存する部分も多いが、自分が述べたいのは自己承認を得ることが、他者承認を得る手がかり、助けとなるということである。女性の例だけではなく、オタクがクラスにいるケースも想像すれば、自信のあるオタクの方が、自信の無いオタクより友達ができる確率が高いことは、自明の理だろう。筋トレに話を戻せば、目に見える変化を間接的に起こすため、目に見えない部分にこだわりを持つことが、筋トレをする目的の一つであると結論づけることが出来ると思う。筋トレは直接的には他者承認に繋がらないかもしれないが、筋トレを通じて、自己に自信を持つことで、他者からの承認を得やすく、また、自己を承認することで一定の満足感を得ることが出来る。

 他者からの承認を得るためだけに、自己承認を求めるような書き方になってしまったが、自己承認というのはそれだけで、一定の満足感を得られるし、世界の見え方も随分と変わる。自分に自信を持ててさえいれば、たとえ他者から認められなくても、幸せであろうと思う。

 

 ここまで書けば、察しのいい読者にはもう私の本当に言いたいことが分かってしまったかもしれない。今のポケモン界は他者承認至上主義に陥りつつあると考えている。

 世界中の人々と手軽に対戦することが出来、レートという数字によって、明確に自らの実績が形となるシステム、Twitterの普及による、他のポケ勢との繋がりやすさ。これらにより、ポケモンというゲームは以前より遥かに他者からの承認を得ることが容易となった。ポケモンというゲームは本来、自己承認のためのゲームであった。好きなポケモンと物語の中で戦い、共に成長し、ゲーム内に設定された強敵を倒してチャンピオンになる。ここに他者からの承認が入り込む余地はほとんど無い。しかし、PGLが発達し世界中の人々との対戦システムが設備された今、ポケモンは自己承認ではなく、他社からの承認を求める世界となり、その風潮は加速していった。人々はTwitterのアカウントを作り、そこで自身が達成したレートという名の数字を公表し、結果を出した構築を公の群衆達に晒すことで他者承認の欲求を満たそうとする。ここで他者承認の持つ最大の落とし穴が、その姿を現した。それは、その欲求にほとんど際限がないということである。他者承認への欲求は膨張を続け、人々はまるで見えない他者からの承認に追いかけられるかのようにしてレートに潜り続け(これが義務モンの正体ではないか)、自らを承認してくれる限られたコミュニティの中で大胆な発言を繰り返し(所謂鍵アカである)、時には自己承認を目指す人々を頭ごなしに否定(マイオナが叩かれる風潮)する。そして、その中でまた誰かが優れた結果を残すことで、この他者承認の無限スパイラルはどんどん増大していく。

 しかし、そんな風潮が長く続くことに耐えられない人々が出てきた。彼らはレート至上主義という名の他者承認至上主義に嫌気がさし、ポケモンというコンテンツから離れていった。本当にもったいないことだと思う。

 

 そろそろまとめに入ろう。自分は、他者からの承認を求めることを悪いと言っている訳ではない。むしろひたむきに勝利を目指す人々の姿は、周りの人にも勇気を与えたり、そうした人々がコンテンツを成長させていっていると思う。ただ、レートを義務のように感じて、ひたすらに潜り続けることに疲れてしまったならば、また昔のように、自己承認を求めてみるゲームのスタイルに戻ることも、悪いことではないのだと思う。使いたいポケモンを使って、自分の中で目標としているレートを目指すことは、決して逃げではない。「昔ポケモンをやっていた頃のキラキラした気持ち」というのは、きっと自己承認のことなのだから。

 

 この記事は、今のポケモン界に警鐘を鳴らすなどといった大それたものではなく、また、高レートを目指す人々のいかなる姿勢及び主張を批判するものではありませんが、こういう考え方もあるということを知っていただくことが出来れば、思い上がりは重々承知の上で、身に余る喜びです。

 

 ご意見、ご感想は以下のTwitterまたはコメント欄まで。なお、こちらとしてはあまり議論する気はありませんが、言われたことについては、きちんと対応させていただきます。

 

 @someman_poke

 

参考文献

山竹伸二『認められたいの正体』